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■虐待の記憶から癒されて■
(埼玉県 38歳女性)

 
   「私が大切に思う人は必ず私から去っていく」これが人生の最早期の経験から私の中で作られた、人との関係で感じてしまう漠然とした不安と恐怖でした。はっきりと言葉になって意識していたわけではありませんが、それは私の人間関係に対する「信念」と呼べるようなものになっていたのかも知れません。
幼い頃に、私と母と弟を置いて父が家を出、その後、父のもとに引き取られ、6歳の時にまた父と別れて母と暮らし始める、という、とても不安定な環境で育ち、けれども、その記憶自体もあやふやで後から人に聞いたものを繋ぎ合わせたものがほとんどでした。ただ、母のもとで暮らし始めた当初は、「いつかお父さんが迎えに来てくれるだろう」と信じて待ち続けていたように思います。けれど両親は離婚をし、私は母に引き取られたんだと、自分の状況が何となく解っていき、母から虐待を受ける生活の中で「お父さんが私を迎えに来てくれる」と信じていたことすら忘れるくらい、ゆっくりと色々なことを諦めていったのでしょう。その諦めたことの中で一番大きなものが「去っていった人がまたもどる」という、人に対する信頼を失ってしまったことだと思います。
 
   23歳の頃に鬱病を発病し、「私が死ねば、夫も子どもも夫の家族もみんなが幸せになれる」そう思い、自殺未遂も何回かしました。幼少期の体験と性虐待、母からの虐待や母の恋人からの性虐待、そしてそのことから守ってくれなかった母。私の中のさまざまな行き場のない怒りが澱となって溜まっていたのでしょう。怒りは正当な相手に向けられない時、自分自身に向かい、それがうつ病という形で自分への攻撃となってしまうことがあると聞きました。娘は私がはじめて性虐待を受けた歳になっていました。今思うと、娘を通してその時の怒りや無力感、絶望を再体験してしまったような気がします。
その頃は死ぬこと考えて一日を過ごすことが唯一生きる手段でした。精神科医にもかかりましたが、辛い・眠れないと言うと、薬のミリ数を増やすだけで、話を聞いてくれようともしないそんな医者に不信感が募るばかりで、そんな治療に不安を抱き、変えた病院で出会った医者のおかげで、取り敢えず症状が治まって暫くした頃、まるでシーソーゲームのように夫の薬物の問題が始まりました。
その頃には、夫との性の問題、夫の女性問題・借金問題、そして私自身が子どもを虐待してしまうという問題…と問題の山積みだったのですが、薬物の問題や虐待のことは誰にも話すことはできない、話したら終わりだ、そう思い込んでいたし、人を信頼することが出来ないでいた為、その当時通っていた精神分析家にも、決して自分の問題をうち明けることはできませんでした。そんな中、何の問題の解決もみないまま、一度は止まった夫の薬物の使用が再燃し、そのために経済的に破綻し、分析に通うことが出来なくなった頃に、ある電話相談がきっかけで薬物の問題を相談出来る場所があるのを知り、すがるような気持ちで出かけて行きました。それが私のAC自覚と治療の出会いと始まりでした。夫の問題や子どもとの関係は、まず私が変わることが必要で、私が変われば家族もで変化してゆくはずと信じ、やっと辿り着いたという思いで様々なAC(アダルトチルドレン)ミーティング、カウンセリング、ワークショップ、クリニック等に出向き、自分自身の回復のてがかりを得るため、歩み出したのです。
 
   そうしたあるとき、治療者の一人に、「回復者として社会に埋もれていくか、それともリカバーのカウンセラーとしてやっていくか、どっちかにしたら。いつまでも患者をやっているのはやめなさいよ」と言われ、その時間髪入れずに「私は回復者として社会に埋もれていきたい」と思いました。でも、ここ(治療の場)にいれば回復者のモデルは目に出来るけれども世間に埋もれた回復者は見つけることができない、モデルになる人がいない、そう思い込んでいました。それは私が回復というものに幻想を持っていた為、気づかなかっただけで、特別のことをしているわけではないけれど、自分のやっていることを楽しみ、イキイキと楽しそうにしている女性が急に見えた時、素敵に生きている人は大勢いる、その人達に出会っていても見えてなかっただけのことなのだとわかり、私もそんな風に暮らしたい、ごく平凡な日常生活を生きている人になりたい、それが私の望む幸せの形なのだと強く思いました。自分の中で回復者の姿というものも具体的にイメージすることができるようになり、これまでのトラウマ治療の中で母との問題は自分なりに解決出来たように思うけれども、自分はまだ治療の場を離れられないでいる、何がまだ自分の中に残っているのだろう。そう考えた時、ほとんど見知らぬ母のもとに引き取られた、あの時の体験が消化されていないのだろう、私の抑うつもネガティブな信念も、あの時に根ざしているのでないか、そして私にとっての「父」というものを見つけられないせいではないだろうか、そう思うようになりました。
 
 
   大嶋先生が退行催眠もやるということを知っていたので、私は退行催眠で6歳の頃の記憶を取り戻したい、そうすれば自分自身の中で変わるものがあるかもしれない、そう思い、初めはその問題についてだけ話を聞いてもらおうと相談室に伺いました。けれども、先生に、6歳だけではない、もっといろいろな年代で傷を負っていて、それが全部影響を及ぼしているよ、と言われ、FAP療法でトラウマを周産期から全部治療することになったのですが、私はこれまで様々な治療を体験し、語れることは語り、自分に出来ることはやってきたと思っていたので、正直FAPが有効なのか半信半疑でした。しかし初回のセッションで乳幼児期までのFAPが終わった時に、赤ん坊の頃かなりのネグレクトをされていたのではないか、と言われ、何か妙に腑に落ちるものを感じました。その頃の記憶など当然ないのだけれど、母のそのときの状況から考えても当然ありうることだし、とても大事な事実を知った、身体が感じたという思いがしました。FAPは全部で8回。何回かやってもらっていくうちに、あるとき、今までとは違った思考をしている自分に気づき、思いがけずわきあがってきた感情が「父の存在」ということと繋がり、急にふっと「ああ、父も母も、私の中にいるんだ」と思えた瞬間がありました。私自身で私を愛し、守って抱き締めてあげられる、そういう気持ちをはじめて感じることができ、すーっと楽になり、しらずに涙が流れていました。その後何日かしたある日、家に帰ると娘が泣いていました。何で泣いているのか聞くと、私に言われたことを守れずいつも忘れてしまう、なんで自分はこんな人間なんだろう、と思って悲しくなったと言います。娘が自分を責めて泣いているとしたら、そんな可哀想なことはないと思ったのですが、私の回復・成長に比例して、被虐待児だった彼女もとても強い女性になっていたので、その彼女が自分を責め泣いていることに違和感を感じ、何故そんなことを突然思ったのか聞いてみると、彼女が小学生の頃、言いつけを守らず受けた虐待のことを語り始めたのです。それは怒りでした。怒っている彼女はまるで小学生に戻っているように見えました。彼女はちゃんと怒りたい相手に怒りを向けられる、私はその怒りに向き合える母であるという事を嬉しく思うと同時に、私は母のようにはならなかった、私達は、私と私の母とは違う関係を築いていると感じられました。
そして、また数日後、夫と食事をしていたとき、何の話からか、夫が私の治療者に嫉妬していたこと、でも今はそれがなくなったことを話してくれました。何か大変なこと、大事なことは治療者に話すのだろう、夫である自分より治療者を信頼しているとずっと感じていたけれど、今はまず最初に自分に話してくれると思えるようになったと聞かせてくれました。彼は治療にも自助グループにも繋がりませんでしたが、薬物から離れて10年になります。
 私が自分の中に「父と母」を見つけた直後のこの2つの出来事は、私が変われば家族も変わると信じていた思いが真実だったことを実感させてくれました。
 夫の母がガンの末期で治療費の支払いが大変だったり、不況で自営でやっている家業は不振で、経済的に不安定だし、夫と兄弟のように育った叔父が殺人罪で服役中なのですが、出所後の先行きのことも気が重い、自分自身の鬱病の再発の恐怖など、問題はあるといえばあります。でも、私の望んだ「平凡な暮らし」はおくれています。願いは現実になったと言えます。

……そして最後の面接の日。終わりは辛いだろうかと自分の心に聞いてみると、ああ、私は大丈夫、と思えてい、「私の大切な人は必ず私から去っていく」という信念は、もしかしたら消えることはないかもしれない、でもそれは事実ではない、と知っている自分がそこにいました。
様々な道を通ってきた中に、大嶋先生がいてくださったことに感謝しています。本当にいろいろとありがとうございました。
 
 
 
 
 
     
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