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心は間違えるの?
連休中は、サーフィンだけしかやりませんでした~!あはは~!
「次の原稿の用意をしなければ!」と思っていたのですが、サーフィンをして「気持ちがいい~!」と帰ってきたら、すぐに寝てしまって「あれ~!また、朝になってる!」という繰り返し。
朝になって、サーフィンに行かなきゃ!と半分以上、修行の気分。
そんなことを続けていたら、今度は「筋肉痛で夜中に起きちゃう!」という状態になってしまいました(何をやっているのかな?もう!)。
全身が痛くなって「イタタタ!」と目が覚めて、そして、痛くてしばらく眠れなくて、うとうとして、そして朝になったら「あれ?そんなに痛くないかも?」と思って、また海に繰り出す、ということをやっていました。
でも、楽しかったんです。
こんなの久しぶりでした。
休みから明けてみたら早速「心って間違えるんですか?」という質問がありました。
ストレートな答えですと「間違いは人の言葉によって作られるもの」です(とんちみたいな答えですね)。
消えてしまったブログの最後に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という有名な言葉を載せてありました。
キリスト教の聖書の中では、この世界のもの全てが言(ことば)で作られています。
「光あれ!と言ったら、光と闇とが分けられた」というところから初まります。
言葉はなんでも作り出すことができちゃうんです。
その言葉で“間違い”や“罪”そして“症状”をお創りになるのが“神”なんですね~!
だから人は誰でも、神を演じられちゃうんです(これも謎かけみたいですね)。
先日、ものすごいことを体験しました。
学校で嫌な目にあって、学校に行けなくなった、という方がお母様といらっしゃいました。
その嫌な目にあった心の傷を治療して「嫌なことは思い出さなくなりました!」と仰っていただいたのに、その方は私の目や顔を見て話をしてくださいません(そんなに私はひどい顔なの~!)。
私がそこに注目を向けたらお母様は嬉しそうでした。
「そうなんです!この子には対人恐怖の症状があるんです!」と言いたげな表情。
普通の専門家だったら「人が怖いんですね?」と質問しちゃうでしょうね~!
そんな質問をしたら「この人はわかってない!」とその方は判断しちゃって「はい」と答えてそこから症状が変わらなくなってしまいます。
そこで”心”を通してその方に質問をします。
「どうして人の目を見るのを避けるのですか?」と(“怖いんですか?”では治療者側の勝手な決めつけになっちゃうから)。
すると、その方は「自分が相手の目を見て相手から嫌われてしまうのが不安だから」とおっしゃいます。
ここで治療者の「人が怖いから人の目を見ることができない」という仮説が一気に打ち崩されます(ガラガラガラ~!)。
「自分が相手を見て相手から嫌われちゃう」というのは”自己視線恐怖症”という症状になります。
でも、”自己視線恐怖症”というのも治療者の勝手な決めつけになりがちなので、さらに“心”に聞きながら、遺伝子のコードを使って「その“嫌われてしまう”って何?」というのを探っていきます。
遺伝子のコードで「人の目を見ると発作を起こして頭が真っ白になって固まっちゃう!」というCASKというのがあります。
それを唱えていただいたら、確かに私の目を見ることができるようになったのですが、今度は目を見たまま、視線を逸らすことができなくなってしまいました。
私は、この時、私の頭の中で「ビビビ!」の発作が起きるのを感じて、学生の頃に「お前!ガン飛ばしてんじゃねえぞ!」と不良連中に絡まれた場面のことが思い出されました。
不良連中って、発作の持病持ちで、相手の目を見ちゃうと発作を起こして「おりゃ~!」ってキレてしまいます。本人たちは、発作を起こして怒るので、怒った場面の記憶が発作によってスッポリ抜けちゃうから「キレてなーい!」となります(これが面白い!)。
一見、自信がなさそうにビクビクしているような子に見えるのですが、その眼力はすごかったんです。
確かに、この眼力で相手のことを見ちゃったら「喧嘩売ってんのか~!」となっちゃってトラブルになるから見られなかったのね!ということがやっとここで理解できるんです。
不良少年と同じような脳内の発作の遺伝子コードを唱えてもらったら「あれ?目を見ても大丈夫になった!」となるから面白いんです。
私の目を見てもらっても、凝視することがなくちゃんと視線を合わせて、そして逸らして、また合わせてということが自然とできるようになり、視線が合っても私の脳内で発作が起きなくなります。
もし、初めに「この子は対人恐怖があるんだ!」と決めつけてしまったら“対人恐怖症”という症状を勝手に私が創ってしまうことになります。
“自己視線恐怖症”という言葉にしても同じです。
「わからない!」が一番面白くて、自分が言を使って神を演じなければ「全て時にかなって“美しい”」ということがクリアに見えてくるんです(“美しい”は有名な本の伝道者の書3章11節からです)。
“心に聞く”をやって見ると、他の人とはちょっと違った美しい世界が見えるんです。
それがものすごく楽しい。
やめられない!止まらない!
あはは~!
24/11/08
24/10/18
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連休中は、サーフィンだけしかやりませんでした~!あはは~!
「次の原稿の用意をしなければ!」と思っていたのですが、サーフィンをして「気持ちがいい~!」と帰ってきたら、すぐに寝てしまって「あれ~!また、朝になってる!」という繰り返し。
朝になって、サーフィンに行かなきゃ!と半分以上、修行の気分。
そんなことを続けていたら、今度は「筋肉痛で夜中に起きちゃう!」という状態になってしまいました(何をやっているのかな?もう!)。
全身が痛くなって「イタタタ!」と目が覚めて、そして、痛くてしばらく眠れなくて、うとうとして、そして朝になったら「あれ?そんなに痛くないかも?」と思って、また海に繰り出す、ということをやっていました。
でも、楽しかったんです。
こんなの久しぶりでした。
休みから明けてみたら早速「心って間違えるんですか?」という質問がありました。
ストレートな答えですと「間違いは人の言葉によって作られるもの」です(とんちみたいな答えですね)。
消えてしまったブログの最後に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という有名な言葉を載せてありました。
キリスト教の聖書の中では、この世界のもの全てが言(ことば)で作られています。
「光あれ!と言ったら、光と闇とが分けられた」というところから初まります。
言葉はなんでも作り出すことができちゃうんです。
その言葉で“間違い”や“罪”そして“症状”をお創りになるのが“神”なんですね~!
だから人は誰でも、神を演じられちゃうんです(これも謎かけみたいですね)。
先日、ものすごいことを体験しました。
学校で嫌な目にあって、学校に行けなくなった、という方がお母様といらっしゃいました。
その嫌な目にあった心の傷を治療して「嫌なことは思い出さなくなりました!」と仰っていただいたのに、その方は私の目や顔を見て話をしてくださいません(そんなに私はひどい顔なの~!)。
私がそこに注目を向けたらお母様は嬉しそうでした。
「そうなんです!この子には対人恐怖の症状があるんです!」と言いたげな表情。
普通の専門家だったら「人が怖いんですね?」と質問しちゃうでしょうね~!
そんな質問をしたら「この人はわかってない!」とその方は判断しちゃって「はい」と答えてそこから症状が変わらなくなってしまいます。
そこで”心”を通してその方に質問をします。
「どうして人の目を見るのを避けるのですか?」と(“怖いんですか?”では治療者側の勝手な決めつけになっちゃうから)。
すると、その方は「自分が相手の目を見て相手から嫌われてしまうのが不安だから」とおっしゃいます。
ここで治療者の「人が怖いから人の目を見ることができない」という仮説が一気に打ち崩されます(ガラガラガラ~!)。
「自分が相手を見て相手から嫌われちゃう」というのは”自己視線恐怖症”という症状になります。
でも、”自己視線恐怖症”というのも治療者の勝手な決めつけになりがちなので、さらに“心”に聞きながら、遺伝子のコードを使って「その“嫌われてしまう”って何?」というのを探っていきます。
遺伝子のコードで「人の目を見ると発作を起こして頭が真っ白になって固まっちゃう!」というCASKというのがあります。
それを唱えていただいたら、確かに私の目を見ることができるようになったのですが、今度は目を見たまま、視線を逸らすことができなくなってしまいました。
私は、この時、私の頭の中で「ビビビ!」の発作が起きるのを感じて、学生の頃に「お前!ガン飛ばしてんじゃねえぞ!」と不良連中に絡まれた場面のことが思い出されました。
不良連中って、発作の持病持ちで、相手の目を見ちゃうと発作を起こして「おりゃ~!」ってキレてしまいます。本人たちは、発作を起こして怒るので、怒った場面の記憶が発作によってスッポリ抜けちゃうから「キレてなーい!」となります(これが面白い!)。
一見、自信がなさそうにビクビクしているような子に見えるのですが、その眼力はすごかったんです。
確かに、この眼力で相手のことを見ちゃったら「喧嘩売ってんのか~!」となっちゃってトラブルになるから見られなかったのね!ということがやっとここで理解できるんです。
不良少年と同じような脳内の発作の遺伝子コードを唱えてもらったら「あれ?目を見ても大丈夫になった!」となるから面白いんです。
私の目を見てもらっても、凝視することがなくちゃんと視線を合わせて、そして逸らして、また合わせてということが自然とできるようになり、視線が合っても私の脳内で発作が起きなくなります。
もし、初めに「この子は対人恐怖があるんだ!」と決めつけてしまったら“対人恐怖症”という症状を勝手に私が創ってしまうことになります。
“自己視線恐怖症”という言葉にしても同じです。
「わからない!」が一番面白くて、自分が言を使って神を演じなければ「全て時にかなって“美しい”」ということがクリアに見えてくるんです(“美しい”は有名な本の伝道者の書3章11節からです)。
“心に聞く”をやって見ると、他の人とはちょっと違った美しい世界が見えるんです。
それがものすごく楽しい。
やめられない!止まらない!
あはは~!