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やっぱりスクリプトは楽しいです
お金持のスクリプト(真面目すぎる人編)の解説の続きです。
いつも、私がジョギングで通り抜ける公園では、おじさんたちが遊具を使って懸垂とかしているんですよね(懸垂はちょっと高い鉄棒にぶら下がって、両腕だけで自分の体重を引き上げるを繰り返す運動)。
「いいなぁ~!あれ!」と思って自分もやって見たんです。
やってみたら、きつくて「うわ~!こんなの何回もできないや!このおじさんたちすげ~!」と思いました。
ここら辺も「お金持になるスクリプト」のヒントになります(ヒントって、だから、スクリプトの仕掛けは知らない方がいいんだって~!)。
子供の頃に「うんてい」をやった時は「途中で落ちるのは怖いけど・まあ落ちても怪我はしないか」という高さにありました。
うんていをやっていて「落ちるのは怖いけど挑戦してみたい!」とちょっとしたスリルを味わっていたような気がします。
大人用の「うんてい」がある公園があればいいのですが、子供用のうんていだと大人がやった場合「足を曲げなければ地面に着いちゃう」となります。
要するに「いつでも足をついてズルができる状態」だから「スリルがない!」ということで「足を曲げ続けて自分の体重を両腕にかけて前に進むことは難しい」となるんです。
「落ちたら怪我をするかもしれない!」というスリルがあったほうが「冷たくったって鉄棒を離せないぜ!」となりますでしょ。
それがなければ「握力」という「実行力」をなかなか発揮することができないんです。
無意識さんに対する暗喩は「チャレンジングな挑戦の方が実行力が発揮できますよ!」ということになります(チャレンジングって「自分にはできるかな?」とちょっと不安になるぐらいの挑戦のことです)。
多少スリルがあるチャレンジを何度も繰り返しているうちに、どんどん「握力」である「実行力」が身についてきて「チャンスを掴み取ることができるようになってるやんけ~!」となるんです。
そんな環境がない場合は、子供用のうんていでも足を曲げればトレーニングができますよ!ということになります。
でも、この場合、長年培ってきてしまった「しがらみ」と「人に対しての気遣い」という贅肉が重くて「握力で自分の体重を支え切ることができない」となって諦めてしまうことがあるんです。
一般の人は「しがらみなんて切り捨てちゃえばいいじゃない!」とか「人になんか気を使わなければいいじゃない!」と簡単に言います。
それができてたらとっくの昔に自由になっているわ!
これらは、身体にくっついている贅肉のように「なかなか削ぎ落とせない!」という感覚が暗示としていつのまにか入っているんです。
怠惰な生活をしているから贅肉が削ぎ落とせないんじゃなくて、人に気を使いすぎているから「重すぎる~!」となって実行力をうまく発揮できなくて動けない。
そして「挑戦したいのに挑戦できない!」という状況になっているのが意識的な世界なんです。
そこから、再び無意識の世界へと入っていきます。
今よりも、しがらみが少なくて、今よりも身体が軽かった子供時代へとイメージの中で戻って、ブランコに乗っている場面を思い出すことで「無意識」の世界へ。
催眠のスクリプトでは「意識」そして「無意識」と繰り返すことで、さらに深い無意識さんの世界へと誘っていきます。
私が子供の頃のブランコって「優しさを受ける」という象徴でした。
そうなんです。人気者の子とか周りから愛される子は、誰かに後ろから押してもらって、高みへと上がっていきます。
「私も押してほしいな」と思っていたのですが「私なんか誰からも押してもらえない」と思っていたので、あの子みたいに「押して!押して!」なんてねだることなんかできませんでした。
優しい子が「押してあげようか」と言って、いつも仲間はずれのようになっている私を哀れんで背中を押してくれたのですが、その優しい手の感触を感じながらも、あまりにも申し訳なくなって、涙が溢れてきそうになり「ありがとう!」と言ってすぐに降りてしまっていたのを思い出します。
「自分の背中を押させるなんて申し訳ない」と。
「自分なんか人から優しさを受ける権利がない」と思っていたのかもしれません。
ブランコって面白いんです。
力学では、押してもらったりして、外から力が加えられなければ「動かない!」し、押してもらって動いても外から力を加えなければ速さや高さを増すことができない、という「慣性の法則」というのがあります(これらの知識は全て無意識さんの中に詰まっていますが意識できないだけ)。
ブランコの場合は、外から力が加わらなくても(一人でも)、止まった状態から漕ぎ出すことはできるし、振幅を大きくすることだって一人で簡単にできちゃうんです。
ちなみにブランコというのは「所作の美しさが成功に導く」という暗喩が含まれています。
ブランコって、背筋を曲げてたり、足をバタバタさせてたら止まっている状態から動かすことができないんですよね。
胸を張って、そして、足を揃えて、そして動きに合わせて綺麗に足を上げたり、曲げたりして美しい姿勢によって、より振幅が、となっています。
所作の美しさは、一般人の嫉妬の対象になって「何にも役に立たない~!」となることが多いんです。
下品な方が受けてるやんけ~!ってね!
その所作って一人でブランコを漕ぎ続けるために身につけたもので、それは成功に導く振幅を大きくするためのものだった、という暗喩が含まれています。
問題は、高く上がって天を仰ぎますが、やがて底辺に戻ってきて、そしてまた後ろに下がり、ある一定の高さになったら、底辺に向かって落ちていくような形で、再び天を見る、ということを繰り返している、ということです。
一発芸人さんは「なんで一発屋なの?」ということを考えるときに、同じギャグを何度もリクエストされると、我に返って「なんでこんなことやっているんだろう?」と冷めてしまうから、と考えます。
周りの人の気持ちを考えてしまい「もう飽きられるのでは?」と不安になったりしたら「アウト~!」ってなるんでしょうね。
子供はなぜ、ブランコを漕ぎ続けることができるのでしょう?
それは、もしかしたら、一人で漕いでいるようで、目に見えない力で後ろから押されている感じがして、その暖かい力を感じたくて、いつまでもいつまでもブランコを漕ぎ続けることができるのかもしれませんね。
書いているのが楽しくて、書きすぎてしまいました。
無意識さんが全てを受け取ってくれています。
そして、そう、いつのまにか後ろから押してくれている優しい力を感じながら、あ!面白いことを私はしているかもしれない、と気がつくのかもしれません。
(つづく)
24/11/08
24/10/18
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お金持のスクリプト(真面目すぎる人編)の解説の続きです。
いつも、私がジョギングで通り抜ける公園では、おじさんたちが遊具を使って懸垂とかしているんですよね(懸垂はちょっと高い鉄棒にぶら下がって、両腕だけで自分の体重を引き上げるを繰り返す運動)。
「いいなぁ~!あれ!」と思って自分もやって見たんです。
やってみたら、きつくて「うわ~!こんなの何回もできないや!このおじさんたちすげ~!」と思いました。
ここら辺も「お金持になるスクリプト」のヒントになります(ヒントって、だから、スクリプトの仕掛けは知らない方がいいんだって~!)。
子供の頃に「うんてい」をやった時は「途中で落ちるのは怖いけど・まあ落ちても怪我はしないか」という高さにありました。
うんていをやっていて「落ちるのは怖いけど挑戦してみたい!」とちょっとしたスリルを味わっていたような気がします。
大人用の「うんてい」がある公園があればいいのですが、子供用のうんていだと大人がやった場合「足を曲げなければ地面に着いちゃう」となります。
要するに「いつでも足をついてズルができる状態」だから「スリルがない!」ということで「足を曲げ続けて自分の体重を両腕にかけて前に進むことは難しい」となるんです。
「落ちたら怪我をするかもしれない!」というスリルがあったほうが「冷たくったって鉄棒を離せないぜ!」となりますでしょ。
それがなければ「握力」という「実行力」をなかなか発揮することができないんです。
無意識さんに対する暗喩は「チャレンジングな挑戦の方が実行力が発揮できますよ!」ということになります(チャレンジングって「自分にはできるかな?」とちょっと不安になるぐらいの挑戦のことです)。
多少スリルがあるチャレンジを何度も繰り返しているうちに、どんどん「握力」である「実行力」が身についてきて「チャンスを掴み取ることができるようになってるやんけ~!」となるんです。
そんな環境がない場合は、子供用のうんていでも足を曲げればトレーニングができますよ!ということになります。
でも、この場合、長年培ってきてしまった「しがらみ」と「人に対しての気遣い」という贅肉が重くて「握力で自分の体重を支え切ることができない」となって諦めてしまうことがあるんです。
一般の人は「しがらみなんて切り捨てちゃえばいいじゃない!」とか「人になんか気を使わなければいいじゃない!」と簡単に言います。
それができてたらとっくの昔に自由になっているわ!
これらは、身体にくっついている贅肉のように「なかなか削ぎ落とせない!」という感覚が暗示としていつのまにか入っているんです。
怠惰な生活をしているから贅肉が削ぎ落とせないんじゃなくて、人に気を使いすぎているから「重すぎる~!」となって実行力をうまく発揮できなくて動けない。
そして「挑戦したいのに挑戦できない!」という状況になっているのが意識的な世界なんです。
そこから、再び無意識の世界へと入っていきます。
今よりも、しがらみが少なくて、今よりも身体が軽かった子供時代へとイメージの中で戻って、ブランコに乗っている場面を思い出すことで「無意識」の世界へ。
催眠のスクリプトでは「意識」そして「無意識」と繰り返すことで、さらに深い無意識さんの世界へと誘っていきます。
私が子供の頃のブランコって「優しさを受ける」という象徴でした。
そうなんです。人気者の子とか周りから愛される子は、誰かに後ろから押してもらって、高みへと上がっていきます。
「私も押してほしいな」と思っていたのですが「私なんか誰からも押してもらえない」と思っていたので、あの子みたいに「押して!押して!」なんてねだることなんかできませんでした。
優しい子が「押してあげようか」と言って、いつも仲間はずれのようになっている私を哀れんで背中を押してくれたのですが、その優しい手の感触を感じながらも、あまりにも申し訳なくなって、涙が溢れてきそうになり「ありがとう!」と言ってすぐに降りてしまっていたのを思い出します。
「自分の背中を押させるなんて申し訳ない」と。
「自分なんか人から優しさを受ける権利がない」と思っていたのかもしれません。
ブランコって面白いんです。
力学では、押してもらったりして、外から力が加えられなければ「動かない!」し、押してもらって動いても外から力を加えなければ速さや高さを増すことができない、という「慣性の法則」というのがあります(これらの知識は全て無意識さんの中に詰まっていますが意識できないだけ)。
ブランコの場合は、外から力が加わらなくても(一人でも)、止まった状態から漕ぎ出すことはできるし、振幅を大きくすることだって一人で簡単にできちゃうんです。
ちなみにブランコというのは「所作の美しさが成功に導く」という暗喩が含まれています。
ブランコって、背筋を曲げてたり、足をバタバタさせてたら止まっている状態から動かすことができないんですよね。
胸を張って、そして、足を揃えて、そして動きに合わせて綺麗に足を上げたり、曲げたりして美しい姿勢によって、より振幅が、となっています。
所作の美しさは、一般人の嫉妬の対象になって「何にも役に立たない~!」となることが多いんです。
下品な方が受けてるやんけ~!ってね!
その所作って一人でブランコを漕ぎ続けるために身につけたもので、それは成功に導く振幅を大きくするためのものだった、という暗喩が含まれています。
問題は、高く上がって天を仰ぎますが、やがて底辺に戻ってきて、そしてまた後ろに下がり、ある一定の高さになったら、底辺に向かって落ちていくような形で、再び天を見る、ということを繰り返している、ということです。
一発芸人さんは「なんで一発屋なの?」ということを考えるときに、同じギャグを何度もリクエストされると、我に返って「なんでこんなことやっているんだろう?」と冷めてしまうから、と考えます。
周りの人の気持ちを考えてしまい「もう飽きられるのでは?」と不安になったりしたら「アウト~!」ってなるんでしょうね。
子供はなぜ、ブランコを漕ぎ続けることができるのでしょう?
それは、もしかしたら、一人で漕いでいるようで、目に見えない力で後ろから押されている感じがして、その暖かい力を感じたくて、いつまでもいつまでもブランコを漕ぎ続けることができるのかもしれませんね。
書いているのが楽しくて、書きすぎてしまいました。
無意識さんが全てを受け取ってくれています。
そして、そう、いつのまにか後ろから押してくれている優しい力を感じながら、あ!面白いことを私はしているかもしれない、と気がつくのかもしれません。
(つづく)