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弱者の感覚が簡単に変わる方法
私が赤ん坊の頃に撮った一枚の写真がありました。
祖父の教会の庭で、母親が私を抱きかかえていて、アメリカ人の宣教師の老婦人が私のそばに笑顔で立っています。
この時のエピソードを祖父は嬉しそうに語ります。
宣教師が私の顔を見て「この子の顔が欲しい!」とおかしな日本語のイントネーションで言った!というのです。
それぐらい可愛い顔をした子どもであった、というエピソードだと思うのですが、私はこれをきっかけに「自分の顔は醜い!」と思うようになった、という感覚があります。
本当に「自分は醜い」と思っていて、そして「誰からも相手にされなくて忌み嫌われるような容姿をしている」とずっと思っていたので、人の顔をまともに見るのが怖いんです。
写真を撮ると「私は醜い」というのが顕著に出てしまって、顔が硬直するので「ますます醜く写ってまうやろ!」となります。
「私は醜い!」と思う時に、フッとあの宣教師が赤ん坊の私に対して言った言葉を思い出すんです。
これまで「なんであの場面を繰り返し思い出すんだろう?」と色々自分なりに仮説を立てていました。
みんなに醜い、と思われていて苦しいから「一人でも私の顔を気に入ってくれた人がいた」と救いを求めたいから思い出す、というのが、一番わかりやすい説なのかもしれません。
でも、それを思ったところで「私は醜い!」という感覚は変わりませんでした。
最近になって「あ!あれって私を抱きかかえていた母の嫉妬の発作を受けちゃって“醜い”と思うきっかけになったから思い出すのかも!」と思ったら、私の中の全てのパズルが綺麗にはまって腑に落ちたんです。
あの微笑ましい写真に写っている母親は、姑からいじめられていました。姑が電車で2時間離れた家までわざわざやってきて、玄関に立って、玄関のドアのさんについた埃を指でなぞって、母の顔の前で「ふっ!」と指についた埃を吹いて何も言わずに帰っていき、母はそこで泣き崩れます。
父親は義理兄に騙されて、知らないうちにヤミ金に借金をさせられて会社の経営に行き詰まってしまいます。そして、家にはお金がなく、母は私を家に置いて、親戚の家に頭を下げてお米を借りにいきます。
容姿が端麗であった母は大手の企業で工場長秘書になっていて、いろんな出世頭の男性からアプローチを受けて迷いつつも、「クリスチャンになったら結婚できる」という話をまともに受けて祖父の教会にやってきてしまう猪突猛進の父と結婚してしまいます。
あの時に他の男性を選んでいたらこんな目に遭っていなかったのに、という母の後悔は、その写真には写っていません。
そんな大変な状況にある20代後半の女性に「この子の顔が欲しい!」と言ったって「イラっ!」としかなりませんよね!と今となったら理解できます。
ストレスで帯電した母の脳は、嫉妬の発作が起きやすくなっていて「ビビビッ!」と電気発作が起きて、赤ん坊の私にショックを与えます。容姿のことに注目が向けば「ビビビッ!」と電気ショックが与えられてしまうので、私はそれが恐怖になり「私は醜い」と思って実際にそうなることで「電気ショックを避ける」という状態になっていたのかも?と今では思うんです。
一般の人がこれを読んだら「母親の愛があるからそんなことが起きるわけがない!」となります。
「どんな状況でも子供を愛しているはず!子供のことを第一に考えているはず!」って。
おっしゃる通り、嫉妬の発作が起きていても「子供のことを第一に考えている」という体でいられます。
単純に母親は容姿端麗だったのだから「容姿で生きたら父親のような大変な人間に引っかかってしまって苦労する!」というのがあるから「この子は決して可愛くない!」と育てないと大変なことになる、という思考パターンが出来上がります。
「可愛い!」と思い上がっていたら大変なことになる!というのが「子供への愛!」になりますが、それは嫉妬の発作で歪められた思考ですから!となるんです。
でも、ストレス状態がマックスだから自分ではどうすることもできないです。
外に行って「いい子ですね~!」と私が褒められると、賢い母親はその場では笑顔で答えますが、私にはその瞬間に「ビビビッ!」というショックが母から飛んできます。「この子って全然勉強をしないんですよ!」という母の思考が飛んできて「僕は全然勉強しないからいい子なんかじゃない!嘘つきなんだ!」となるんです。実際に家に帰ってから「あんたはちっとも勉強しない!」と怒鳴りつけられて天国と地獄。「いい子ですね!」と褒められて”天国”の気分の後は、必ず怒鳴りつけられる”地獄”が待っている、というパターンでした。
なんでこんなことを書いているかというと「弱者である」という思い込みを簡単に捨てる方法を見つけちゃったからなんです。
「みんな、子供なんだ!」という認識になれば「自分は弱者!」という感覚から解放されるんだ、ということを教わってしまいました。
私は「母親が立派なクリスチャンで常に正しい大人である」とずっと思ってきました。
そして、私はいつまでも成長できない醜い子供である、という認識がいつまでもぬぐえません。
醜い嫉妬深い子供で、常に「ずるい!」と人のことを怒っていて、怒りが止まらないです。
何か簡単にこの幼いまま成長が止まってしまった精神状態が変わる方法があるはず!とずっと思ってきたんです。
「どこか大人になれない!」という感覚が簡単に一瞬で変わる、という方法があって、それは難行苦行は一切必要ないのでは?と考えていました。
私は人から「大人になれよ!」と言われてきました。
その度に「どんなに努力をしても大人になれない自分がいる」と落ち込んでいました。
大人の思考をして「まあ、いいじゃないか!」と相手を許そうとすると、心の奥底で許せていない醜い部分があって、そこだけが自分の中でハイライトされてしまって「やっぱり中身はちっとも大人じゃない!」となっていたんです。
「大人になる!」というのに矛盾を感じていました。
逆に「みんなが子供」という認識を持った時に「あ!自分は大人じゃん!」と自然と感じられた不思議な感覚。
「なるほど!」
「これなんだ!」とちょっと感動。
有名な本の中に「義人(正しい人)はいない、ひとりもいない」と書いてあります。
それをもじって「大人はいない、ひとりもいない」と教えていただいた時に「あ!」となったんです。
パズルのピースがはまった瞬間の気持ちよさを感じています。
24/11/08
24/10/18
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私が赤ん坊の頃に撮った一枚の写真がありました。
祖父の教会の庭で、母親が私を抱きかかえていて、アメリカ人の宣教師の老婦人が私のそばに笑顔で立っています。
この時のエピソードを祖父は嬉しそうに語ります。
宣教師が私の顔を見て「この子の顔が欲しい!」とおかしな日本語のイントネーションで言った!というのです。
それぐらい可愛い顔をした子どもであった、というエピソードだと思うのですが、私はこれをきっかけに「自分の顔は醜い!」と思うようになった、という感覚があります。
本当に「自分は醜い」と思っていて、そして「誰からも相手にされなくて忌み嫌われるような容姿をしている」とずっと思っていたので、人の顔をまともに見るのが怖いんです。
写真を撮ると「私は醜い」というのが顕著に出てしまって、顔が硬直するので「ますます醜く写ってまうやろ!」となります。
「私は醜い!」と思う時に、フッとあの宣教師が赤ん坊の私に対して言った言葉を思い出すんです。
これまで「なんであの場面を繰り返し思い出すんだろう?」と色々自分なりに仮説を立てていました。
みんなに醜い、と思われていて苦しいから「一人でも私の顔を気に入ってくれた人がいた」と救いを求めたいから思い出す、というのが、一番わかりやすい説なのかもしれません。
でも、それを思ったところで「私は醜い!」という感覚は変わりませんでした。
最近になって「あ!あれって私を抱きかかえていた母の嫉妬の発作を受けちゃって“醜い”と思うきっかけになったから思い出すのかも!」と思ったら、私の中の全てのパズルが綺麗にはまって腑に落ちたんです。
あの微笑ましい写真に写っている母親は、姑からいじめられていました。姑が電車で2時間離れた家までわざわざやってきて、玄関に立って、玄関のドアのさんについた埃を指でなぞって、母の顔の前で「ふっ!」と指についた埃を吹いて何も言わずに帰っていき、母はそこで泣き崩れます。
父親は義理兄に騙されて、知らないうちにヤミ金に借金をさせられて会社の経営に行き詰まってしまいます。そして、家にはお金がなく、母は私を家に置いて、親戚の家に頭を下げてお米を借りにいきます。
容姿が端麗であった母は大手の企業で工場長秘書になっていて、いろんな出世頭の男性からアプローチを受けて迷いつつも、「クリスチャンになったら結婚できる」という話をまともに受けて祖父の教会にやってきてしまう猪突猛進の父と結婚してしまいます。
あの時に他の男性を選んでいたらこんな目に遭っていなかったのに、という母の後悔は、その写真には写っていません。
そんな大変な状況にある20代後半の女性に「この子の顔が欲しい!」と言ったって「イラっ!」としかなりませんよね!と今となったら理解できます。
ストレスで帯電した母の脳は、嫉妬の発作が起きやすくなっていて「ビビビッ!」と電気発作が起きて、赤ん坊の私にショックを与えます。容姿のことに注目が向けば「ビビビッ!」と電気ショックが与えられてしまうので、私はそれが恐怖になり「私は醜い」と思って実際にそうなることで「電気ショックを避ける」という状態になっていたのかも?と今では思うんです。
一般の人がこれを読んだら「母親の愛があるからそんなことが起きるわけがない!」となります。
「どんな状況でも子供を愛しているはず!子供のことを第一に考えているはず!」って。
おっしゃる通り、嫉妬の発作が起きていても「子供のことを第一に考えている」という体でいられます。
単純に母親は容姿端麗だったのだから「容姿で生きたら父親のような大変な人間に引っかかってしまって苦労する!」というのがあるから「この子は決して可愛くない!」と育てないと大変なことになる、という思考パターンが出来上がります。
「可愛い!」と思い上がっていたら大変なことになる!というのが「子供への愛!」になりますが、それは嫉妬の発作で歪められた思考ですから!となるんです。
でも、ストレス状態がマックスだから自分ではどうすることもできないです。
外に行って「いい子ですね~!」と私が褒められると、賢い母親はその場では笑顔で答えますが、私にはその瞬間に「ビビビッ!」というショックが母から飛んできます。「この子って全然勉強をしないんですよ!」という母の思考が飛んできて「僕は全然勉強しないからいい子なんかじゃない!嘘つきなんだ!」となるんです。実際に家に帰ってから「あんたはちっとも勉強しない!」と怒鳴りつけられて天国と地獄。「いい子ですね!」と褒められて”天国”の気分の後は、必ず怒鳴りつけられる”地獄”が待っている、というパターンでした。
なんでこんなことを書いているかというと「弱者である」という思い込みを簡単に捨てる方法を見つけちゃったからなんです。
「みんな、子供なんだ!」という認識になれば「自分は弱者!」という感覚から解放されるんだ、ということを教わってしまいました。
私は「母親が立派なクリスチャンで常に正しい大人である」とずっと思ってきました。
そして、私はいつまでも成長できない醜い子供である、という認識がいつまでもぬぐえません。
醜い嫉妬深い子供で、常に「ずるい!」と人のことを怒っていて、怒りが止まらないです。
何か簡単にこの幼いまま成長が止まってしまった精神状態が変わる方法があるはず!とずっと思ってきたんです。
「どこか大人になれない!」という感覚が簡単に一瞬で変わる、という方法があって、それは難行苦行は一切必要ないのでは?と考えていました。
私は人から「大人になれよ!」と言われてきました。
その度に「どんなに努力をしても大人になれない自分がいる」と落ち込んでいました。
大人の思考をして「まあ、いいじゃないか!」と相手を許そうとすると、心の奥底で許せていない醜い部分があって、そこだけが自分の中でハイライトされてしまって「やっぱり中身はちっとも大人じゃない!」となっていたんです。
「大人になる!」というのに矛盾を感じていました。
逆に「みんなが子供」という認識を持った時に「あ!自分は大人じゃん!」と自然と感じられた不思議な感覚。
「なるほど!」
「これなんだ!」とちょっと感動。
有名な本の中に「義人(正しい人)はいない、ひとりもいない」と書いてあります。
それをもじって「大人はいない、ひとりもいない」と教えていただいた時に「あ!」となったんです。
パズルのピースがはまった瞬間の気持ちよさを感じています。