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〒105-0021 東京都港区東新橋2-16-3カーザベルソーレ4F
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人は本当に変われるのか?
ラスト一冊の原稿は、担当者の方とミーティングをしてから書くことになっているから「あ!今日は書かなければいけない原稿がない!」と久しぶりの開放感(昨日からそれを満喫しているのですが)。
追われている感じがなくていいですね~!
昨日の朝、サーフィンに行ったら「ぜんぜん疲れ方が違う!」とちょっとびっくりしてしまいました。
「あ~!原稿を書かなきゃ!」と思っていた時は「ゼー!ゼー!」って、すぐに苦しくなって「チ~ん!お家に帰ろう!」と諦めて帰ってしまいました(若返りの遺伝子を唱えた時はそうじゃないのですが。頑固だからあまり唱えないんですよね!)。
原稿から解放された昨日は、ぜんぜん疲れなくて「楽しい!」と心から楽しめることができました。
本当に精神的ストレスって、体力にも影響するんですね。
多分、以前の私だったら「まだ、終わっていない原稿があるし、終わらせられるのかな?」とか「10月からまた2本の原稿が始まるけど大丈夫かな?」なんて不安になっていたんです。
今回の“口癖”の原稿を書いていて、気がついたのは「先のことを心配しちゃうのも”口癖”なんだ!」ということです。
先のことを考えて「大丈夫かな?」というのが私の口癖。それを言ってしまうと不安になって“今”を楽しめなくなっちゃう。
「『大丈夫かな?』と先のことを考えそうになったら『口癖を変えちゃえばいいんだ!』と気がついたのっていつからなんだろう?」と自分でも不思議に思います。
原稿を書いていて「あ!そうなんだよな!口癖を変えたら”今”を楽しめるようになったんだよな!」と思い出していて「あれって、いつからだっただろう?」と思い出せなくて。でも、大変だったよな~!以前は!常に先のことを考えて不安になっていたから、しょっちゅう体調を崩していたんです。
まるで私の人生を知っているが如くに、編集者が「先のことを考えて不安になっちゃう口癖のことを書いてください!」と本の設計図に書いてくるから面白いんですよね(見たんかい!)。
本当に興味深いです。
昨日の「母親基準じゃ変われない」というのはちょっと難しかったかもしれないから、ちゃんとした背景を書きます。
私の家はキリスト教で、祖父は牧師さんをやっていました。
キリスト教の「変わる」は「イエスを自分の救い主と信じて、そして自分の罪を告白して救われる」というものです。
プロテスタントとカソリックの違いがあるのかもしれませんが、カトリックの場合は洗礼を受けた人は「罪を犯したら懺悔室で告解すればいい」となります(ここら辺はあまり詳しくはありません。何故ならずっとプロテスタントできていますから)。
プロテスタントの場合は、一度「私はイエスと信じて、救われます!」と宣言したら「罪を犯さないはず!」になります(これも多分私だけの解釈なのかもしれませんが)。
自分が「イエスを自分の救い主だと信じます!」と宣言したら「罪から解放された清い人間になって罪を犯さないように変わるはずでしょ!」となるはず。
宣言して、3、4日は品行方正に生きようと努力をするのですけど、結局、品行方正に生きようとすればするほど、学校ではいじめられ、家では「なんで勉強をしないの!ちっとも変わっていないじゃないの!」と怒鳴られて、惨めな思いに浸り「やっぱり変わっていない!(ぐっすん!)」と罪にまみれてしまうんです。
この場合の罪って、いじめっ子に対する怒り、そして「勉強していないじゃない!」と怒られた時に「やっているよ!」と思わず嘘をついてしまったこと、など。「イエスを信じます」と変わったつもりになっても周りの子からいじめられ、そして除け者にされる醜い心の持ち主であること。そして、私のその時の最大の罪は「イエスを信じたって何も変わっていないじゃないか!」と文句を言いたくなることでした。
「変わっていない!」とか「変われない!」と文句だけで済めばいいのですが「罪を抱えたまま死んだら永遠に地獄の業火で焼かれて苦しむ」という恐怖があるから「どうしよう!変わらなきゃ!」ってずっと怯えていたのですが、「変われない!」を繰り返して「このままだったら地獄に落ちる!」という恐怖の中に生きていたんです。なにせ永遠の業火ですからね。
ちなみに私は、小学生の時に「タワーインフェルノ」というビル火事の映画を無理やり父親に見せられて、恐怖で3日以上眠れなくなってしまい「この子は頭がおかしい!」と両親から言われました。
変われないメカニズムは簡単。
品行方正に生きようとすればするほどクラスメイトが嫉妬の発作を起こしちゃう!!から。
実際に、ちょっと前に小学生の時の同窓会に行ったら、いじめっ子が「お前に嫉妬していていじめて申し訳なかった」と言っていました。でも、嫉妬って発作だからどうすることもできないんです。
あとは、昨日のテーマだった「母親の嫉妬」があります。「自分の子供だからそんなに簡単に変わるわけがない!」という母親の思考があって、そして「品行方正に生きよう!」とする私を見て「変わるわけがない!」と母親が思ってしまうのは“嫉妬の発作”から。発作時の母親の脳に帯電した電気が私に飛んできて「ビビビッ!」とショックを与えるから「思うように動けない!」となり、母親から「ちっとも変わっていないじゃない!」となってしまうんです。
イエスが「誰でも新しく生まれなければ」と言っていたのは「母親をすげ替えなきゃダメでしょ!」という解釈をします。母親の中に「自分の子供だから」という上下関係があれば、ちょっとでも子供が「変わる」となると「発作が起きてまうやろ~!」となってしまうから。嫉妬の発作は「自分よりも下の立場の人間が、自分よりも高いものを持っている」という条件で起きます(まあ、仮説ですけどね)。
母親には子供に対する愛があるから、そんなこと起きるわけがない!という反論があるかもしれません(だから発作なんだって!)。
家で暴力を振るっていた息子さんを母親がカウンセリングに連れてきて「先生!なんとかしてください!」と治療をして「あれ?暴力は無くなったかも!」となります。そんな時に、お母さんが息子さんに「なんで、あなたはあんな頭のおかしい先生のところにいつまでも行っているの!」って言っちゃいます(まあ、確かに頭はおかしいですけど)。
これってお母さんの脳内で“嫉妬の発作”が自動的に起きちゃうから、どうしょうもないんです。
これはわかりやすい例ですけど、大抵は、私の「罪深くて変われない!」の例のようにわかりにくくて「自分がおかしいから変われないんだ!」と自分を責めることになってしまうんです。
だから「誰でも新しく生まれなければ」とイエスが言ったんだと思います。
イエスが母親と一緒に友人の結婚式に行った時のエピソードが面白いです。
ぶどう酒が婚礼の席でなくなってしまって「大変じゃ~!」という時に、イエスの母親がイエスに「ぶどう酒がなくなってしまいました」と言います(その場にいたら、イエスの母に思いっきり「なんでやねん!」と突っ込みたいのですが)。
その時、イエスは母に「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。私の時は、まだ来ていません」と言ったんです。
これが「すげ~!」と思うんです。
イエスが「お母さん」と言ってしまったら、上下関係がそこで明らかに存在してしまうから、イエスが水をワインに変えちゃったりしたら、イエスの母親の頭の中では嫉妬の発作が起きちゃっておかしな言動を起こしちゃいます。
その手前でイエスは「婦人よ、あなたは、私と、なんの係わりがありますか」と上下関係を切り離して、ちゃんと発作が起きないようにしちゃっている!!
多分この“切り離す”という芸当ができたのは、イエスとブッダぐらいでしょうね。
ブッダは天才だけど、イエスもすごいです。
でも、これを逆に考えると、嫉妬の発作ってものすごい威力なんだな!と思うんです。
ここに「変わる!」のヒントがあるような気がしているんです。
(つづく)
すみません、長々と書いてしまって。
アマゾンのレビューをたくさん書いてくださってありがとうございます。
休み中はレビューをチェックできなくて、久しぶりにチェックしたらあまりにもうれしくてこんなに長い文章になってしまいました。
後日、お礼を書かせていただきます。
大感謝!!
大嶋 信頼
24/11/08
24/10/18
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ラスト一冊の原稿は、担当者の方とミーティングをしてから書くことになっているから「あ!今日は書かなければいけない原稿がない!」と久しぶりの開放感(昨日からそれを満喫しているのですが)。
追われている感じがなくていいですね~!
昨日の朝、サーフィンに行ったら「ぜんぜん疲れ方が違う!」とちょっとびっくりしてしまいました。
「あ~!原稿を書かなきゃ!」と思っていた時は「ゼー!ゼー!」って、すぐに苦しくなって「チ~ん!お家に帰ろう!」と諦めて帰ってしまいました(若返りの遺伝子を唱えた時はそうじゃないのですが。頑固だからあまり唱えないんですよね!)。
原稿から解放された昨日は、ぜんぜん疲れなくて「楽しい!」と心から楽しめることができました。
本当に精神的ストレスって、体力にも影響するんですね。
多分、以前の私だったら「まだ、終わっていない原稿があるし、終わらせられるのかな?」とか「10月からまた2本の原稿が始まるけど大丈夫かな?」なんて不安になっていたんです。
今回の“口癖”の原稿を書いていて、気がついたのは「先のことを心配しちゃうのも”口癖”なんだ!」ということです。
先のことを考えて「大丈夫かな?」というのが私の口癖。それを言ってしまうと不安になって“今”を楽しめなくなっちゃう。
「『大丈夫かな?』と先のことを考えそうになったら『口癖を変えちゃえばいいんだ!』と気がついたのっていつからなんだろう?」と自分でも不思議に思います。
原稿を書いていて「あ!そうなんだよな!口癖を変えたら”今”を楽しめるようになったんだよな!」と思い出していて「あれって、いつからだっただろう?」と思い出せなくて。でも、大変だったよな~!以前は!常に先のことを考えて不安になっていたから、しょっちゅう体調を崩していたんです。
まるで私の人生を知っているが如くに、編集者が「先のことを考えて不安になっちゃう口癖のことを書いてください!」と本の設計図に書いてくるから面白いんですよね(見たんかい!)。
本当に興味深いです。
昨日の「母親基準じゃ変われない」というのはちょっと難しかったかもしれないから、ちゃんとした背景を書きます。
私の家はキリスト教で、祖父は牧師さんをやっていました。
キリスト教の「変わる」は「イエスを自分の救い主と信じて、そして自分の罪を告白して救われる」というものです。
プロテスタントとカソリックの違いがあるのかもしれませんが、カトリックの場合は洗礼を受けた人は「罪を犯したら懺悔室で告解すればいい」となります(ここら辺はあまり詳しくはありません。何故ならずっとプロテスタントできていますから)。
プロテスタントの場合は、一度「私はイエスと信じて、救われます!」と宣言したら「罪を犯さないはず!」になります(これも多分私だけの解釈なのかもしれませんが)。
自分が「イエスを自分の救い主だと信じます!」と宣言したら「罪から解放された清い人間になって罪を犯さないように変わるはずでしょ!」となるはず。
宣言して、3、4日は品行方正に生きようと努力をするのですけど、結局、品行方正に生きようとすればするほど、学校ではいじめられ、家では「なんで勉強をしないの!ちっとも変わっていないじゃないの!」と怒鳴られて、惨めな思いに浸り「やっぱり変わっていない!(ぐっすん!)」と罪にまみれてしまうんです。
この場合の罪って、いじめっ子に対する怒り、そして「勉強していないじゃない!」と怒られた時に「やっているよ!」と思わず嘘をついてしまったこと、など。「イエスを信じます」と変わったつもりになっても周りの子からいじめられ、そして除け者にされる醜い心の持ち主であること。そして、私のその時の最大の罪は「イエスを信じたって何も変わっていないじゃないか!」と文句を言いたくなることでした。
「変わっていない!」とか「変われない!」と文句だけで済めばいいのですが「罪を抱えたまま死んだら永遠に地獄の業火で焼かれて苦しむ」という恐怖があるから「どうしよう!変わらなきゃ!」ってずっと怯えていたのですが、「変われない!」を繰り返して「このままだったら地獄に落ちる!」という恐怖の中に生きていたんです。なにせ永遠の業火ですからね。
ちなみに私は、小学生の時に「タワーインフェルノ」というビル火事の映画を無理やり父親に見せられて、恐怖で3日以上眠れなくなってしまい「この子は頭がおかしい!」と両親から言われました。
変われないメカニズムは簡単。
品行方正に生きようとすればするほどクラスメイトが嫉妬の発作を起こしちゃう!!から。
実際に、ちょっと前に小学生の時の同窓会に行ったら、いじめっ子が「お前に嫉妬していていじめて申し訳なかった」と言っていました。でも、嫉妬って発作だからどうすることもできないんです。
あとは、昨日のテーマだった「母親の嫉妬」があります。「自分の子供だからそんなに簡単に変わるわけがない!」という母親の思考があって、そして「品行方正に生きよう!」とする私を見て「変わるわけがない!」と母親が思ってしまうのは“嫉妬の発作”から。発作時の母親の脳に帯電した電気が私に飛んできて「ビビビッ!」とショックを与えるから「思うように動けない!」となり、母親から「ちっとも変わっていないじゃない!」となってしまうんです。
イエスが「誰でも新しく生まれなければ」と言っていたのは「母親をすげ替えなきゃダメでしょ!」という解釈をします。母親の中に「自分の子供だから」という上下関係があれば、ちょっとでも子供が「変わる」となると「発作が起きてまうやろ~!」となってしまうから。嫉妬の発作は「自分よりも下の立場の人間が、自分よりも高いものを持っている」という条件で起きます(まあ、仮説ですけどね)。
母親には子供に対する愛があるから、そんなこと起きるわけがない!という反論があるかもしれません(だから発作なんだって!)。
家で暴力を振るっていた息子さんを母親がカウンセリングに連れてきて「先生!なんとかしてください!」と治療をして「あれ?暴力は無くなったかも!」となります。そんな時に、お母さんが息子さんに「なんで、あなたはあんな頭のおかしい先生のところにいつまでも行っているの!」って言っちゃいます(まあ、確かに頭はおかしいですけど)。
これってお母さんの脳内で“嫉妬の発作”が自動的に起きちゃうから、どうしょうもないんです。
これはわかりやすい例ですけど、大抵は、私の「罪深くて変われない!」の例のようにわかりにくくて「自分がおかしいから変われないんだ!」と自分を責めることになってしまうんです。
だから「誰でも新しく生まれなければ」とイエスが言ったんだと思います。
イエスが母親と一緒に友人の結婚式に行った時のエピソードが面白いです。
ぶどう酒が婚礼の席でなくなってしまって「大変じゃ~!」という時に、イエスの母親がイエスに「ぶどう酒がなくなってしまいました」と言います(その場にいたら、イエスの母に思いっきり「なんでやねん!」と突っ込みたいのですが)。
その時、イエスは母に「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。私の時は、まだ来ていません」と言ったんです。
これが「すげ~!」と思うんです。
イエスが「お母さん」と言ってしまったら、上下関係がそこで明らかに存在してしまうから、イエスが水をワインに変えちゃったりしたら、イエスの母親の頭の中では嫉妬の発作が起きちゃっておかしな言動を起こしちゃいます。
その手前でイエスは「婦人よ、あなたは、私と、なんの係わりがありますか」と上下関係を切り離して、ちゃんと発作が起きないようにしちゃっている!!
多分この“切り離す”という芸当ができたのは、イエスとブッダぐらいでしょうね。
ブッダは天才だけど、イエスもすごいです。
でも、これを逆に考えると、嫉妬の発作ってものすごい威力なんだな!と思うんです。
ここに「変わる!」のヒントがあるような気がしているんです。
(つづく)
すみません、長々と書いてしまって。
アマゾンのレビューをたくさん書いてくださってありがとうございます。
休み中はレビューをチェックできなくて、久しぶりにチェックしたらあまりにもうれしくてこんなに長い文章になってしまいました。
後日、お礼を書かせていただきます。
大感謝!!
大嶋 信頼