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正しい人
謙虚で忍耐強い人にならなければ求めている物は手に入らない、と思ってきました。
寛容、親切、忍耐、自制などを常に意識して高尚な人間になることで素晴らしい物が与えられると信じていました。
でも、言語性と動作性知能のバランスが取れた時に、人が自分の縄張りに入ってくるだけでイラッとしてしまう“空の鳥”の現象を考えた時、「自分は間違っていたのかも?」ということに気がつきます。
“空の鳥”状態になった方が、不思議とそれまで変わらなかったその人の周囲の状況が変わっていき、求めていたものが自動的に手に入る現象を目の当たりにしたからです。
学生時代から「正しく生きる」を常に意識してきました(真面目か!)。
何も考えていないように見える友達ほど、どんどん欲しい物を手に入れていきます。
それが恋人だったり、よい成績だったり、先生からの好評価だったり、他の生徒からの信頼感だったりします。
それに比べて「正しく生きよう」と常に考えていた私は、求めている物が全く得られず、偽善者扱いをされてしまい嫌われ者になります(どんだけ~!)。
これって正しく生きる者に対する迫害か?と思ってきました(アホでしょ~!)。
確かに私は偽善者でした。
なぜなら、正しく生きるを演じながら心の中で自由に生きる人たちを「いつかアリとキリギリスのようになる!」と裁いていたからです。
自分が何も得られず苦労するのは、いつか今楽しく生きている人と立場が逆転したときの為。
そのときはあいつらと立場が逆転して自分が微笑む日が来るはず、と思っていました(暗いな~!)。
言語性知能と動作性知能のバランスをとるコードを唱えていただいて、苦しみの状況からガラリと変わっていく方々を見る時に、あの学生時代に何も考えないですべてを手に入れていた友人たちのことが頭に浮かびます。
宗教的な観点で見れば、一見「正しく生きる努力をする人」の方が素晴らしい人、になるのかもしれません。
でも、“空の鳥”の下りを読んでみると、実際は「何も考えないで生きる人」の方が神を全面的に信頼する人になって、本格的に神の恩恵を受ける人となる、と考えてみたらものすごく面白いんです。
心理学の授業の時にトラストフォールというのをやったことがあります。
目を閉じてまっすぐ立って、そして後ろに立っている人たちが自分を支えてくださるのを信頼して、後ろに倒れる、という単純なワークです。
それをやるまで「みんなから意地悪をされて後頭部を地面にぶつけたらどうしよう?」とか「自分だけ後ろに誰も立っていなかったら?」などと考えてしまって、なかなか後ろに倒れることが出来ませんでした。
でも、一度思い切って後ろに倒れて見ると、みんなの温かい手が背中を支えてくれて、不思議と涙が出てきたのを覚えています。
宗教的に考えたら、神を全面的に信頼すれば温かい手であなたを支えてくれるから、考えないで任せなさい、となります。そして、自分で考えないで委ねて任せた時に、全てを与えてくれる、という話になります。
でも、遺伝子コード的にみると言語性知能が暴走してしまっているから、どんどん不幸の想定をしてしまって「想定した状況が現実になっている」という錯覚に陥ってるだけ、となります。
動作性知能のコードで知能のバランスが取れれば、不幸の想定が次第に収まっていき、錯覚から解放され、都合のいい現実が目の前に広がるようになっていきます。
私自身、厳格な宗教的な家庭で育ったせいで、こんな「思ったことが何一つ手に入れられない」という不幸な体質になってしまった、と思っていたのですが、大学は宗教色が濃い学校にいたにもかかわらず、その中で自由に生きていて、全てを手に入れていく友達はたくさんいたわけですから「やっぱり、宗教じゃなくて自分の知能の問題なんだ!」ということが理解できます。
聖人にならなければ求めている物は手に入らない、と思っていたのですが、実際は、知能のバランスが取れていないと錯覚に邪魔されて求めている物は手に入りづらくなる、と言うことなのかもしれない、というのは面白い仮説なのかも知れません。
そして、人にイラッとすることも悪いことなんじゃないんだ!と思ったら楽しくなります(聖人を意識していたからイラッとすることも悪いことだと思っていた)。
動物同様に人間にも縄張りがあっておかしくはありません。
その縄張り意識も遺伝子が影響しているなんていうことは、ものすごく興味深いんです。
24/11/08
24/10/18
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謙虚で忍耐強い人にならなければ求めている物は手に入らない、と思ってきました。
寛容、親切、忍耐、自制などを常に意識して高尚な人間になることで素晴らしい物が与えられると信じていました。
でも、言語性と動作性知能のバランスが取れた時に、人が自分の縄張りに入ってくるだけでイラッとしてしまう“空の鳥”の現象を考えた時、「自分は間違っていたのかも?」ということに気がつきます。
“空の鳥”状態になった方が、不思議とそれまで変わらなかったその人の周囲の状況が変わっていき、求めていたものが自動的に手に入る現象を目の当たりにしたからです。
学生時代から「正しく生きる」を常に意識してきました(真面目か!)。
何も考えていないように見える友達ほど、どんどん欲しい物を手に入れていきます。
それが恋人だったり、よい成績だったり、先生からの好評価だったり、他の生徒からの信頼感だったりします。
それに比べて「正しく生きよう」と常に考えていた私は、求めている物が全く得られず、偽善者扱いをされてしまい嫌われ者になります(どんだけ~!)。
これって正しく生きる者に対する迫害か?と思ってきました(アホでしょ~!)。
確かに私は偽善者でした。
なぜなら、正しく生きるを演じながら心の中で自由に生きる人たちを「いつかアリとキリギリスのようになる!」と裁いていたからです。
自分が何も得られず苦労するのは、いつか今楽しく生きている人と立場が逆転したときの為。
そのときはあいつらと立場が逆転して自分が微笑む日が来るはず、と思っていました(暗いな~!)。
言語性知能と動作性知能のバランスをとるコードを唱えていただいて、苦しみの状況からガラリと変わっていく方々を見る時に、あの学生時代に何も考えないですべてを手に入れていた友人たちのことが頭に浮かびます。
宗教的な観点で見れば、一見「正しく生きる努力をする人」の方が素晴らしい人、になるのかもしれません。
でも、“空の鳥”の下りを読んでみると、実際は「何も考えないで生きる人」の方が神を全面的に信頼する人になって、本格的に神の恩恵を受ける人となる、と考えてみたらものすごく面白いんです。
心理学の授業の時にトラストフォールというのをやったことがあります。
目を閉じてまっすぐ立って、そして後ろに立っている人たちが自分を支えてくださるのを信頼して、後ろに倒れる、という単純なワークです。
それをやるまで「みんなから意地悪をされて後頭部を地面にぶつけたらどうしよう?」とか「自分だけ後ろに誰も立っていなかったら?」などと考えてしまって、なかなか後ろに倒れることが出来ませんでした。
でも、一度思い切って後ろに倒れて見ると、みんなの温かい手が背中を支えてくれて、不思議と涙が出てきたのを覚えています。
宗教的に考えたら、神を全面的に信頼すれば温かい手であなたを支えてくれるから、考えないで任せなさい、となります。そして、自分で考えないで委ねて任せた時に、全てを与えてくれる、という話になります。
でも、遺伝子コード的にみると言語性知能が暴走してしまっているから、どんどん不幸の想定をしてしまって「想定した状況が現実になっている」という錯覚に陥ってるだけ、となります。
動作性知能のコードで知能のバランスが取れれば、不幸の想定が次第に収まっていき、錯覚から解放され、都合のいい現実が目の前に広がるようになっていきます。
私自身、厳格な宗教的な家庭で育ったせいで、こんな「思ったことが何一つ手に入れられない」という不幸な体質になってしまった、と思っていたのですが、大学は宗教色が濃い学校にいたにもかかわらず、その中で自由に生きていて、全てを手に入れていく友達はたくさんいたわけですから「やっぱり、宗教じゃなくて自分の知能の問題なんだ!」ということが理解できます。
聖人にならなければ求めている物は手に入らない、と思っていたのですが、実際は、知能のバランスが取れていないと錯覚に邪魔されて求めている物は手に入りづらくなる、と言うことなのかもしれない、というのは面白い仮説なのかも知れません。
そして、人にイラッとすることも悪いことなんじゃないんだ!と思ったら楽しくなります(聖人を意識していたからイラッとすることも悪いことだと思っていた)。
動物同様に人間にも縄張りがあっておかしくはありません。
その縄張り意識も遺伝子が影響しているなんていうことは、ものすごく興味深いんです。